人間は煩悩、欲望の塊で、人間の生存とは、限りのない欲望の追求ではないかと思うことがあります。
守銭奴という言葉があるように、この世には、専ら金銭を追求しそれを死守することに喜びを求める人々も少なからず存在します。
しかし、どれほど蓄財し、富裕であっても人間は死を逃れることはできません。
医療技術の進展に伴い、臓器を変えることで長寿を願う富裕層もいるようですが、いくら臓器を変えても「脳」を変えることはできません。
変えれば恐らく人格の同一性が失われ、自分が自分でなくなるかも知れません。
クローン技術の発展によるクローン生命体も必ずしも同一ではないことが指摘されていますので、いくら蓄財し、富裕であり,先進的な医療技術の恩恵を受ける立場に恵まれたとしても、秦の始皇帝の願いが叶わなかったように「永遠の命」を求めることには限界があるのでしょう。
限られた命であるからこそ人間は今の一刹那を大切にすることができるのです。
人間が死を逃れないことは厳然たる事実であるにもかかわらず、多くの人間はその自明の理を忘れ、限りなく金銭を蓄財することに執着するものです。
それは,金銭が人間の食欲や性欲、物欲等の諸々の欲望を実現するための最強の手段であるからで,美食に耽り、美の追求のために化粧だけでなく、顔面に大規模な整形工事を施し、あるいは豪邸での優雅な生活を求めるのもすべては人間の欲望の所産で、多かれ少なかれ、金銭により比較的、容易に実現可能なものですから、欲望の強い人間であればあるほど金銭を強欲に求めるものです(逆説的には、金銭で支配されていると言えますね。)。
俗に言う「お金持ち」というのは欲の深い人間の代名詞であることが少なくありません。
しかし、「起きて半畳、寝て一畳」、「千畳敷に寝ても畳は一枚」の箴言のとおり、豪邸生活の快楽も時の移ろいによる虚しさの訪れとともにそれほど長くは続かないのと同様に、限りのない欲望もやがては「死」という避けられない事実により終焉を迎えることになるのです。
“京都”という空間は、その事実を悟れる人に自然とその天啓を感じさせる場所だと思います。
多額の金銭・資産を形成しても最後は死を迎えることによりそれを失うときが確実に訪れます。
誰もが化野の露、鳥部山の煙となり、賽の河原の石積のように遅かれ早かれ石は崩されるのです。
残された遺産は、法定相続人(法律で相続人とされている人をいいます。
配偶者は常に相続人となり、子がいる場合、子が第一順位の相続人となります。)がいれば法定相続人に、いなければ原則として国庫に帰属します(民法第817条以下、第959条)。
貴方の旦那さんや奥様、お子様あるいはご兄弟は貴方の死を心から悲しんでいるのでしょうか?
遺産の承継者が、貴方の死を心の底から悲しむことのない「笑う相続人」であったとすれば、金銭や資産を形成した貴方の人生は何だったのでしょう。
それも強欲であったことの因果応報なのでしょうか。
それでは、自分が信頼できる人物に金銭や資産を遺言書で残せば問題ないだろうと思われる方もおられるかも知れません。
笑う相続人はいても笑う受遺者(遺言書で遺産を譲り受ける人を受遺者といいます。)はいないだろうと…
果たして本当にそうなのか?遺言書は本当に万能?それはいずれ次回の講釈で。